付き合い始めて2年後、15歳の初代に22歳の康成がプロポーズってことはだよ。イチャラブ真っ盛りの時期は、
こういう組み合わせだったわけでだよ。さらに
これらの手紙の一部は、今月16日から岡山市で始まる川端康成ゆかりの美術品の展覧会で公開されます。
とか、
世が世なら、「僕が練炭自殺したのを聞いたら、何も調べずに、自宅のPCとスマホを壊してくれ。特にハードディスクは念入りに」というのが大文豪の遺書になってたのかなー。それとも、史実通り、これらの時限爆弾も「思い出」として大事にしまったまま、御大は静かにガス管を咥えたんだろうか。
すげえなあ。おいらが同じ立場だったら、おちおち死んでもいられねー。今回の一件だけで、彼を尊敬できるわ。ノーベル賞作家としてではなく、最期まで自分を隠さずに逝った一人の男として。
ノーベル文学賞を受賞した文豪、川端康成が学生のころに恋人に宛てた手紙が、神奈川県の自宅に保管されていたことが分かりました。この恋人との思い出は、初期の主な作品の題材になっていて、研究者は川端文学の原点を知る重要な資料として注目しています。
保管されていたのは大正10年、学生だった川端康成が文壇デビューした年に伊藤初代という女性に宛てた手紙1通と初代から川端が受け取った手紙10通で、川端が晩年まで暮らした神奈川県鎌倉市の自宅にありました。
初代は川端の7歳年下で初恋の人と言われ、川端が22歳のときに一度は結婚を誓い合った仲ですが、初代の側から婚約を破棄したことで2人の恋が終わり、その理由は今でも明らかになっていません。
これらの初代との思い出は、「南方の火」や「篝火」といった川端の初期の作品の題材になったほか、映画化された作品「伊豆の踊子」にも影響を与えたとされています。
今回見つかった川端の手紙は、婚約したあとに突然、連絡が取れなくなった初代を心配する内容で、「毎日、毎日、心配で心配で寝られない」とか、「恋しくって恋しくって早く會わないと僕は何も手につかない」など、およそ600文字の飾らない文章がつづられています。
しかし、手紙には日付が入っておらず、川端が書いたものの、何らかの理由で投かんされずに手元に残っていたと考えられています。
一方、初代からの手紙は川端を慕う思いが切々とつづられています。
手紙の存在は川端の作品を通じて一部が知られていましたが、全文が明らかになるのは初めてです。
川端康成学会の常任理事の森本穫さんは「初代との恋とその終わりは川端文学の原点とも言える体験で、その詳しい経緯を知るうえでも重要な資料だ」と話しています。
これらの手紙の一部は、今月16日から岡山市で始まる川端康成ゆかりの美術品の展覧会で公開されます。
(以下略)
(7月8日 NHK)
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