「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」 ~ 山口県周南市金峰集落の連続殺人事件は「古くて新しい劇場型犯罪」なのだろうか。

池田小事件の宅間や秋葉原通り魔事件の加藤ほど、世間への直接的かつ自棄的な自己顕示欲に支配されているというよりも、自身を物語の1つの登場人物に据えて惨劇を楽しんでいる狂気を感じる一句。

一方、「八つ墓村」@横溝正史やそのモデルの津山三十人殺し事件のような、惨劇前に綴られたドロドロした人間関係や地域性があるわけでも無いのに、静閑な山間に突如として訪れた、説明のつかない狂気の暴走。

犯人候補の63歳は、日頃から「自分は薬を常用している(ような異常者だ)から、大量殺人しても罪にならない」と放言していたようだが、その表面的な精神の不安定さや凶暴性と、上記の「小説の一場面のような」惨劇が、必ずしもリンクしているとは限らない。

犯人は一連の犯行で何を「表現」したかったのだろうか。私は、この事件の犯人に、宅間や加藤のような「人生の最後に一つ大きなコトをしたかった」「自分の不満や不幸を他人にも味あわせたかった」といった単層的な劇場型犯罪者とは異なる、大正から昭和初期までに書かれてきた怪異譚や猟奇物語に通じる、一種のグロテスクな文学性を感じる。

それは、今のデジタル化された情報やデータから取り残された、古き知性の暴走なのか。懐古趣味的な倒錯の末路なのか。私は今、この犯人の言葉を直接聞きたい。心からそう思う。

<山口5人殺害>不気味な張り紙残して男不明、住民不安な夜

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