現実と信条の狭間で矜持を保とうとする卓郎

「森永卓郎:福田康夫、恐るべし」

一週間前の同氏のコラム:「経済“タカ派”福田氏で日本経済はどうなる」と併せて読むと、「経済評論家としての彼の主張」の向こうに「政治/社会評論家としての彼の限界」が見えてきます。

つまりはアレですな。森永氏は「構造改革路線が嫌い→その本丸たる町村派/清和会が嫌い→だから福田氏の経済政策スタンスに不安(≒嫌い/否定の対象)」。そこまでは、アカデミカルな経済評論家の主張としては許容範囲内です。が、その次からがいけない。タカ派/ハト派の二元論で「福田派」「麻生派」を単純区分化してしまった訳ですが、これがあまりに乱暴に過ぎた。

何故なら、こと構造改革に限っても、総裁選前後の発言を聞く限り、麻生氏は構造改革路線を否定していないし、福田氏も従来の路線維持に固執していません。「A.構造改革は長期的な国策/ビジョンとして不変」「B.中短期的な政権維持のためには現実的な妥協も必要」、AとBを口にしている順番が違うだけで、彼らの経済政策の基本スタンスに大きな違いはない。何故なら、その基本スタンスは極めて妥当的なものであり、麻生氏・福田氏の両者とも常識的な現実主義者だから。

両者というより両陣営に違いがあるとすれば、その「政争面」における行動原理と麻生氏ないし福田氏を推す(ないし神輿を担いでいる)面々/集団の内向きな思惑についてでしょう(小泉氏による福田氏支持なんてその最たるもの)。そして、それら(彼ら?)が経済政策も含めた各政策(外交、軍事、教育、治安etc)についてどのように作用しているのかは、無理矢理な二元論ではなく個々のケースとして論ずるべきです。彼らは都合でスタンスなんてコロコロ変える「実利>信条」な現実主義者なんですから。むしろ「書生的に頑なだった」安倍のボンが政治家としては異常な存在てなもんで。

あまりに机上のモデル的な「経済“タカ派”福田氏で~」コラムを書いた後の今回の現状追従コラム。おそらく森永氏は、総裁選後にもっと教条的な政策論争が内部で戦わされ、それを受けて世論も(特に経済政策面で)二分されると期待していたのでしょうが、実際はそうはならなかった。麻生氏も含めて極めて現実的な挙党体制に戻り、それこそが現実的だと(明確or暗黙のうちに)認識した大衆も福田内閣の支持に回ったのは周知の通りです。その現実と己が主張とのギャップを可能な限り矜持を保ちつつ埋めたい欲求の発露。それが今回のコラムの正体であるように神楽には思われます。特にラスト2行からは彼のフラストレーションが痛いほど感じ取れますし。

そりゃね、神楽だって自民と民主その他を一度シャッフルして、「○○についてはハト派/タカ派」「××についてはハト派/タカ派」って綺麗に議員連中を分けたいって思いますよ。でも、それはそれでスッキリするでしょうが、そんな形で運命の天秤に自らの政治生命を賭ける政治家なんて、社民党か共産党か旧・チーム安倍の一部とその狂信的シンパにしか居ないっしょ?(笑)。

1年の安倍政権のダッチロールに振り回されて、大衆が求める政治家像は「革命家」ではなく「現実主義者」に変わりました。安部のボンに力量があれば今でも「革命家」がニーズの一番手であり続けたかもしれませんが、それも今となっては言っても詮無きこと。それを分かっているから、麻生氏も福田氏も極めて「現実主義者」の顔をアピールしようとしているわけです。過去のスタンスとの整合性を採るために主張の順番は微妙に変えつつも。

その最終形態(現時点)が、9/25に福田氏が発言した「名案というものはございません」。これって主義主張に凝り固まった教条主義者からは絶対に出てこない、最強の台詞for現実主義者&その支持層(もっともそれ故に見切られるのも早いだろうけど)。森永氏は政権与党の勢力図を無理矢理単純なモデル化して分析しようとする一方、福田氏からこの手のコメントが出てくることは予測できなかったし、予測しようともしなかった。そこに彼の政治/社会評論家としての限界があるように思われます。

P.S.

そんな森永せんせには、最萌トーナメントへの参加がマジお奨め。ここには民主主義のギトギトからキラキラまで全てが凝縮されているから、公私共に楽しめること請け合いDEATHヨ!。

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