直木賞作家の坂東眞砂子さん(48)が、日本経済新聞の18日夕刊に「私は子猫を殺している」と告白するコラムを掲載したところ、インターネット上などで批判の声が上がり、日経新聞や動物愛護団体に抗議が相次いでいることがわかった。
「日本動物愛護協会」(東京都港区)は近く、コラムの内容について日経新聞に事実確認を申し入れる予定だ。
批判が上がっているのは、日経新聞夕刊の「プロムナード」というコーナーで、「子猫殺し」とタイトルが付けられた坂東さんのコラム。「こんなことを書いたら、どんなに糾弾されるかわかっている」で始まり、生まれたばかりの子猫を家の隣のがけ下に投げ捨てていると告白している。その上で、飼い猫に避妊手術を受けさせることと、子猫の投げ捨てを対比し、「生まれてすぐの子猫を殺しても(避妊と)同じことだ。子種を殺すか、できた子を殺すかの差だ」と書いた。
掲載後、日本動物愛護協会などには抗議のメールやファクスなどが殺到。日経新聞には、24日正午までに、メールで508件、電話で88件の問い合わせがあり、ほとんどが批判や抗議という。
坂東さんは、仏領タヒチ島在住。日本の動物愛護法では、猫などの愛護動物をみだりに殺したり、傷つけたりすると、1年以下の懲役か100万円以下の罰金となる。環境省の動物愛護管理室は「(坂東さんが)海外居住のため、日本の法律の適用外」としているが、フランスの刑法でも、悪質な動物虐待については拘禁刑や罰金刑を定めている。
坂東さんは日経新聞を通じ、「動物にとって生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明しました。それは人間の生、豊穣(ほうじょう)性にも通じることであり、生きる意味が不明になりつつある現代社会にとって、大きな問題だと考えているからです」とコメント。日経新聞では「個々の原稿の内容は、原則として筆者の自主性を尊重している」としている。
坂東さんは、「桜雨」「曼荼羅道(まんだらどう)」などで知られる人気作家。97年には「山妣(やまはは)」で直木賞を受賞している。
(2006年8月24日 読売新聞)
神楽はいわゆる普遍的学問的な「哲学」に造詣の深いほうじゃありません。それ故に坂東女史が「魂の未だ宿らぬ種」と「曲がりなりにも魂の宿った子猫」を同列に扱うことが哲学的に、あるいはアカデミカルな視点全般から見て正しいのかどうかは分かりません。
ただ、これだけは言えます。このコラムのラストあたりで、坂東女史は「愛玩として動物を飼う者は、飼い主として納得できる道を選択するしかない」「殺しの痛み、悲しみをわが身で引受けて猫の子殺しをした」と主張していますが、そのロジックが「動物にとって生きるとは何か」を問う姿や「生きる意味」の探究心から導き出されているとは到底思えません。
育てたい猫の生を尊び、そうではない猫の生は滅する。そんな「上位者の自己都合で左右される生」をベースに、「生きることととは何か」を語るなんて、ただの詭弁、飼い主という上位者の傲慢以外の何物でもありません。彼女の主張は、自己都合の「間引き」に対する良くて自己弁護、悪くすればかなり歪な「開き直り」でしかありません。
そして、彼女自身、その歪さを十分に理解しています。「動物にとって~」云々という発言自体、彼女自身がそれを信じていない。コラムの文面からはそういった彼女の本音が滲み出しています。
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正直なところ、上記の認識なり分析結果は、個人的にどうでもいいです。神楽が気になるのは、坂東女史の傲慢さそのものではなく、「動物にとって~」発言よりも根っこにある彼女の本音が何かということ。彼女は何を目的にこのコラムを書いたのかという点です。晒す必要のない自分のエゴを何故公表したのかという点です。
神楽にはこう思えてなりません。今回のコラムは坂東女史による「仕掛け」なのではないかと。周囲のシンパシイを得ることなど毛頭考えていないこのコラムは、読者の様々な感情や思考を引きずり出す云わば「劇薬入り撒き餌」に過ぎないのではないかと。彼女は擬似的に快楽殺人犯、劇場型殺人犯の役を演じたがっているのではないかと。そういった反社会的な人でなしとしての注目を浴びたいという欲求にかられているのではないかと。「子猫殺し」とは、コラムの表題ではなく、坂東女史脚本・演出の一戯曲の題名なのではないかと。
そして次の想像に一番嫌悪感を感じるのです。「彼女は、この戯曲とそれに踊らされた人たちの姿をモデルに一個の作品を書き上げるつもりなのではないか」と。順番こそ違えど、これまで殺されてきた子猫たちはそのための材料に過ぎないのではないかと。それが作家・坂東眞砂子の「本音」なのではないのだろうかと
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