「田中康夫的なるもの」の正体 花岡信昭氏のコラム in SAFETY JAPAN

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/column/y/20/

こういうマイ・テリトリーなテーマを扱う時の花岡信昭氏の主張は傾聴に値しますね(禁句=モーニング娘。(笑))。ぶっちゃけ、今回のコメントの大半は、至極当たり前の事実追認なのですが、

「直接民主主義」の導入は、住民投票を重視する昨今の風潮と一体のものである。その地域だけで解決できるテーマなら分かるが、基地移設など国家レベルの問題まで住民投票にかけてしまっては、首長の政治責任の放棄と言わなくてはならない。これを民主主義的であるかのように受け取る「錯誤」、それがまさに「田中康夫的なるもの」の実態である。

田中氏のようなすっからんぽな人物が(本人の善意悪意は関係なく)直接民主主義を金科玉条に立ち振る舞う危うさや滑稽さを、花岡氏はここで端的に表しています。小泉首相の劇場型政治の危険性もこれに近いですが、「実益を伴わないイメージ偏向型県政運営」「諸要件の実務担当者を無視or軽視した独善的プランニング」「建設的な対立軸を外部に作ることを許さない不毛なメディア戦略」という点で、田中氏の方がより独裁的であると言えましょう。

さて、それはそれとして田中氏の知事就任以来6年間が過ぎ、今回の知事選で長野県民は「No!」を田中氏に突きつけた訳ですが、逆に言えばその6年間(特に2期目)、田中氏は何故長野県民から支持され続けてきたのでしょうか。花岡氏は「田中氏によるマインドコントロール」をその理由の一つとして考え、同じくマインドコントロールからの開放を今回の田中氏落選理由としています。そして、それは事実の一面において正しいと思います。

ただ、神楽は、大衆ってもっとクールで残酷な存在と思ってますので、今回の知事選の結果を「6年間同じ芸風で代わり映えのしない田中氏という玩具に飽きた長野県民が、キリのいいところで玩具を処分した」に過ぎないんじゃないかと考えています。彼の県政運営に対する県民からの評価自身は、この数年間選挙戦時点まで全然変わっていませんもん。

大衆は、常に自己の価値観というより都合と嗜好に沿って動くもの。独裁者を選ぶのも、単純にマインドコントロールされているからではなく、自らの判断そして一票の重みを過信あるいは思考停止した結果、自分たちの意見や利害により近い(と妄信している)権力者個人に権限を付託することを是としているからです。そして逆もまた真なり。

今回の知事選の経緯を調べ、先の観点から見てみると、長野県ってシャーマニズム支配下の古代共同体とあまり変わらない気がします。ペログリは良い様に祭り上げられ最後には生贄とされる巫女(笑)、長野県民はその巫女を都合良く持ち上げて全ての責任をおっかぶせた挙句、迷い無く生贄とする共同体構成員といったところでしょうか。そんな滑稽にして悲惨な状況が演出されるのが直接民主主義の怖さであり、その怖さの一端が垣間見えたのが今回の知事選でした。実のところ、上記のようなペログリのスペックの低さは大した問題ではありません。むしろ、そういう人物を使い捨てにした側の「冷淡な飽きっぽさ」をこそ重視すべきでしょう。

現時点における日本での「直接民主主義」の可能性と限界、その検証実験が長野で始まろうとしてます。次の巫女:村井氏はいつまで飽きられないでいられるでしょうか。戦後数十年ガチガチの前近代的な県政に安住し、6年前突然に歪な形で民主主義を与えられた長野県民は、どの程度冷静に新知事との距離感を保てるまで成長しているでしょうか。悪しき直接民主制度の前例は、良き直接民主制度の踏み台となりうるでしょうか。今後の長野県政の推移をちょっと意地悪く見守っていきたいと思います。

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