昨年11月の「私の履歴者」絡みでこんなことやあんなことを言い立てていることから皆様もご承知の通り、神楽は「大田淵」の存在を肯定する立場にはありませんし、その立場に立とうとも思いません。
しかし、いざ彼がこの世を去ったと聞くと、その存在を無視できない自分がいるのも事実。証券・金融業界とその周辺の魑魅魍魎どもに対する彼の功と、何よりも大罪に対して言いたいことは山脈一つ分もありますが、とりあえず今は一言のみ。「謹んで故人のご冥福をお祈りいたします。田淵節也さん、貴方は確かに巨人でした」。
「証券界のドン」と呼ばれた田淵節也氏(たぶち・せつや=元野村証券会長)が26日午後9時16分、心不全のため東京都新宿区の病院で死去した。84歳。岡山県津山市出身。葬儀は近親者のみで執り行い、後日お別れの会を開く予定。
1947年京大法卒。同年野村入社。63年取締役、常務、専務、副社長を経て78年社長。85年会長。97年非常勤顧問を経て同年6月退社。「法人営業の田淵」と名をはせ、野村を世界的な証券会社に育て上げた功労者の一人だった。
会長時代に日本証券業協会会長、東京証券取引所理事会議長などを歴任。90年12月には証券業界から初めて経団連(現日本経団連)副会長に就いたが、損失補てん問題や広域暴力団稲川会との取引発覚で91年7月に副会長を解任された。
一連の不祥事の責任を取って同証券相談役に退いたが、95年に取締役に復帰。その後、総会屋への利益供与事件の発覚で取締役を辞任し、97年6月にすべての役職から身を引いた。
(6月28日 時事通信)
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