http://d.hatena.ne.jp/kagura-may/20060125/p1
1/25も、一連のライブドアショック&その後のメディアの「ライブドア叩き」に際して同様の私見を申し上げさせて頂きましたが、ここ最近の「植草一秀叩き」「亀田一派パージ」「赤西仁騒動」で追加的に感じたことがありましたので、少しばかりツラツラと。
まず最初に神楽の立ち位置ですが「植草氏については冤罪否定派」「アンチ亀田」「赤西というよりジャニーズ事務所批判派」です。その上で以下存念をば。
曰く「やはり人は自分に都合のいいものしか見えない」さらに「どんな断片的な情報だと分かっていても、人は自分にとって受け入れやすいものから受け入れる」。意図的な論理のすり替えといったものではない、ある程度の検証作業らしきものを経てなお矛盾から目を逸らして自己に都合のいいロジックに拘泥するその姿勢。上記の事例に関するネットでの主張や情報のやり取りを眺めていると、彼らの後ろに見え隠れするその「頑なさ」に危惧を感じます。
ある主張に対するアンチテーゼの構築に際し、恣意的に自己に有利な材料をピックアップするのは(ある意味)当然の行為です。公平公正では有りませんが、その目的から鑑みれば理解は出来ます。しかし、ネット上も含めて雑多に流れる情報の欠片を「情報の奔流には流されまいぞ」とばかりに殊更無視して、当初の思考の袋小路に安住する向きが擁護・批判両派に見られるのは、どう判断したものでしょう。
例えば「某情報は2ch発のヲタのヨタ話だからガセ」「被害者情報の詳細が発表されないからガセ」っておいおい。該当しているその件については2chでどうこうされる前から業界筋で流れてますって。痴漢の被害者情報の情報を事後にリリースすることが一般的だとでも?。それらを検証した上で否定しているならともかく、どうして上記のレベルの判断で簡単に目耳を塞げるのか、神楽には不思議でなりません。
そうかと思えば、「頭の中の真実」に都合のいい情報(ブラフや大本営発表含む)がリリースされると、「そうだよ。これが真実だ!」とばかりに「後追い」で飛びつく向きもある。雑多な情報をばら撒くという行為自体が、情報の発信元の「焦点をぼやかせたい」「枝を隠すには森の中」という意向そのものの表明である(可能性が強い)にも関わらず、何故かそれをスンナリ受け入れる。貴方方の思考に第三者的視点からの可能性の追究・再検証というものは無いのかと、神楽は本気で伺ってみたい。
もちろん彼らがそういった一連の行動を執るに当たっては、単に思考による判断だけではなく、「騙されているんじゃない。騙されたいんだ」という心理・心情的な希望的観測もあるのでしょう。しかし、その心理に捕らわれるあまり、可能性の断片に対して壁を作り、その挙句に「思いて調ばざれば則ち殆うし」というのはいかがなものでしょうか。
当然ながらこの危うさは神楽自身の中にもあります。自分なりに追加的な情報の収集と裏取りはやっていますが、それでも無意識のうちに「可能性への壁」を作って、思考の引きこもり部屋に安住していることがあるかもしれません。努々気をつけないと!ですね。
以上、自戒の意を込めながら。てんてん。
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