山口県光市・母子殺人事件の元少年被告の上告審判決に関して、あちこちのブログやネットでの議論を覗いてみると、「被告は更正の目がない悪党だから早く死刑にしろ!」「その被告に組みする人権派弁腰士も同罪だ!」という主張と、「被告を早く吊るせと騒いでいる連中は、法のなんたるかや実情を知らず、メディアやその黒幕に踊らされている○○だ!」「弁護士を批判している奴も同類だ!」という主張とが、イマイチかみ合わないままぶつかり合っています。そして厄介なことに、双方が口にしている「正論」は双方それなりの説得力を持っています。
正直、この状況は不毛以外の何物でもありません。
各人の「正義」というか価値観は所詮主観的なもので、偏向していて当然です。加えて「正論」という主張は、その偏った価値観を理論武装するための手段でしかなく、常に「対極の価値観をベースにした正論」というアンチテーゼが存在するファジーな概念に過ぎません。
更に言えば、異なる価値観の比較検討の中でこそ、主張という手段は存在意義があるのであり、少なくとも、絶対的かつ一方的な真実を担保する「正論」なんて存在しない。にもかかわらず、「メディアや司法側の本音は云々」といった事実なり仮説についての議論・検証は二の次に、己が価値観を金科玉条にして、他の価値観の保有者を一方的に「己が正論」で批判・否定するという姿勢はいかがなものでしょう。
今、被告側関係者は世間からの猛烈なバッシングにあっています。世間一般の社会通念的な正義あるいはその正義を演出した側(メディア+α)によって批判されています。その批判自体は一面において正しいですが、全体において情緒的に過ぎ、なにより、多数派の価値観が少数派を圧殺するという流れの結果であるという点で、かなり問題であるといわざるを得ないでしょう。
その一方で、神楽は被告の犯した罪と態度を許せません。被告の父親の事件直後から世情を煽動する言動を嫌悪します。現在の被告弁護人:安田好弘に対しては、「己が正論」を通すために一方的かつ脇甘な裁判・法廷戦術を取った「三流の政治活動家」的な立ち振る舞いと、被害者遺族の心情を軽々しく踏みにじることで世論を敵に回し、守るべき被告に害を及ぼした「弁護士にあるまじき」言動(あるいは愚昧さ・傲慢さ)を批判しています。それは、それらがネガティブな判断を下すに足る、客観的な事実だからです。
故に(というのも変ですが)、彼ら被告側関係者を批判している人に対して、神楽はこう申し上げたい。「彼らを批判するなら、彼らの価値観や主義主張をではなく、彼らの言動の矛盾と歪さを批判して欲しい」と。それが不毛な現状からの脱却からの第一歩だから。
とかなんとか言いながら、神楽が今一番批判したいのは、被告側関係者の愚かさより、「世論迎合&責任回避」かました最高裁の「正論」ですけどね(おぃ)。
P.S.
ところで、安田好弘の活動家としてではなく弁護士としての能力・見識って、ぶっちゃけどの程度なものなんでしょう?。ヒューザーの小嶋弁護に際しての「耐震強度偽装を知りながら売っても詐欺にはならない」「詐欺を行う必要もなかった。何故ならヒューザーは手持ち現金が潤沢だったから」って論法には仰け反りましたが。貴方、少しはディベロッパー業界の事業フローとB/Sの特徴を勉強してからしゃべりなさいよと(ニガワラ)。
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