イナ・バウアー

<フィギュア>荒川、勝因は後半の3連続ジャンプ

2006年2月24日(金) 毎日新聞

 これしかないという筋書きだった。荒川静香は、SP1位のコーエンと0.71点差で、ほぼ同格。上位3選手が同じだけの重圧を背負う中、フリー演技は始まった。

 コーエンは、冒頭の連続ジャンプでまさかの転倒。2つ目のジャンプも手をつくなど、明らかに硬い滑り出しだった。得意のスピンも軸が安定しない。しかし中盤から意地で持ち直し、得意のスパイラルは満面の笑みで観客をひきこんだ。「自分の足でしっかり立てなかった」とこぼしたコーエン。SP1位の重圧は予想以上だった。

 荒川は冷静だった。新採点方式になってから、複雑なジャンプのルールに戸惑い、今季はジャンプミスに悩まされた。跳ばなければいけないジャンプを抜かしたり、連続ジャンプを忘れたり。混乱した時の荒川は、少し体の動きが機械的になる。しかしこの日は違った。

 プッチーニの歌劇「トゥーランドット」の流れに乗り、伸びやかに手足が動く。2つ目のジャンプでは、3回転-3回転の予定を、3回転-2回転に抑え、堅実に体力を温存。後半の、イナ・バウアーから続く3連続ジャンプに勝負をかけた。

 今季のシーズン初めは、スパイラルもスピンも、思ったより点が伸びなかった。「点を取りこぼしている」と荒川は、手を離すY字スパイラルや、ドーナツスピンとビールマンスピンを組み合わせるといった、オリジナルの技を次々と開発。金メダルへの道を一歩ずつ進んでいた。

 「いまだに信じられない。楽しく滑ることが出来たのが良かったのかも」と荒川。8年間待ち望んだ五輪の金メダルを胸に、満面の笑み。クール・ビューティーの目に涙が浮かんだ。

 スルツカヤは無念の銅メダルに終わった。滑り始める前、何度もコーチから肩をたたかれたが、緊張が抜けきらない。いつもの小気味良さが潜め、力を出し切ることに専念したが、後半の3回転ループでの転倒が痛かった。

 3年前、母親の看病と心臓病のためにスケートを断念。それでも「リンクを降りて、私はスケートが好きだと分かった」と、復帰を決意した。薬の副作用に耐えながら、世界トップの座に舞い戻ったスルツカヤ。世界選手権も、欧州選手権もすべて優勝し、手にしていないのは五輪の金メダルだけ。スルツカヤを強く支えてきた思いの強さが、この大舞台ではプレッシャーになってしまった。銅メダルを胸に、さみしそうに微笑んだ。【野口美恵】

 まずは荒川静香選手に最大の賛辞を贈りたいと思います。金メダルを取ったことにではなく、ロクに得点にならないイナ・バウアーを敢えてプログラムに折り込み、その上で誰にも文句を言わせない形で勝利したことに対して。

 得点方式や演技の論評、荒川選手の経歴についての詳細は新聞各紙で論じられておりますので割愛しますが(注:ちなみに一番的確な分析をやっていたのは日本経済新聞。サッカーとオリンピックについては日経のコメントがいつも一番的確)、荒川選手は勝つための手堅い無理の無い「大人の演技」を遂行しながら、本人の競技人生のアイデンティティとも言えるイナ・バウアーを演じ抜きました。

 そこが最高に素晴らしい。魅せることより勝つことを望まれる五輪で、勝つことだけに縛られることもなく、魅せることだけに逃げることもせず、義務を果たしつつ我が道を行くその姿勢。コーエン、スルツカヤといった新旧の大物がプレッシャーで自滅する中、何よりもまず自分に勝った精神力。まさに女王、否そのツッパリ度はむしろ「博徒の大姐御」の貫禄。

 

 米ニューヨークタイムズ紙は、「荒川は優雅な演技ではあったが、卓越してはいなかった。今回は誰が金を取ったかではなく、誰が取れなかったかという観点から記憶される五輪になる」と論評しました。これはコーエンが負けたことへの負け惜しみではないでしょう。日ごろの同紙の偏向ぶりも関係無いと考えます(笑)。神楽も実際そうだと思いますから。

 だからこそ、トリノで雪崩を起こしたように自滅していった若手競技者特に男女スノーボード・ハーフパイプの選手達にとって、五輪での荒川選手の競技姿勢は良い見本になったのではないでしょうか。もし彼ら彼女らが荒川選手の勝因を目にしてなお、我が身を省みることが無いのなら、4年後のバンクーバーではトリノと同じ光景が競技会場で再現されることになるだろうと神楽は思います。

 古人曰く「武装した預言者はみな勝利をおさめ、備えのない預言者は滅びる」。我が生き方を貫きたければ、貫くだけの実力という資格を手にしなければならない。荒川選手はその資格を持ち、トリノで体現した数少ない競技者の1人となりました。そのことにもう一度賛辞を述べたいと思います。おめでとう!

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