今朝、乗り合わせた満員電車で、サラリーマンと男子高校生がぶつかったのぶつからないので喧嘩をしていた。先に降りた高校生が、捨て台詞にこう言った。「死ね!サラリーマン!」。
夕方、混みこみの通勤電車で、中年サラリーマンと若者が口論していた。興奮した中年が、こう叫んだ。「ガキが、うるせえんだよ!」。
傍から見ていると、両方の関係者ともどっちもどっちで、やっている行為や言っている内容に大差なかった。喧嘩は同レベルのもの同志でしか起こらないというが、本当だな。とその場では思った。
あとで「おや?」と思った。何故高校生は「サラリーマン死すべし」と言ったのか。どうして中年リーマンは「年少は黙るべし」と言ったのか。「死ね」「黙れ」だけでいいじゃないか。相手に伝える内容は。何故、相手を特定の階層に当てはめてから、罵倒するんだ?。
ちょっと考えた。
同レベルのものが同一の立場でいがみ合った場合、相手をどう見てしまうだろうか。人は無意識に「鏡に映った自分」を憎むような感覚になるのではないだろうか。それを避けるためには、同レベルの相手を「自分とは違う存在」と位置づける作業が、無意識に自分の中で起こるのではないだろうか。
よく、「幼児や老人の振る舞いを見て、若者は嘲ってはならぬ」という。「過去の自分を侮るなかれ、未来の自分を哂うなかれ」という。それは人として正しいありようだ。しかし、こと、誰かを憎み、争う相手と認識するためには、その対象を敢えて「自分たちとは違う存在」と位置づけることが、何よりも容易い、心の障壁の取り除き方なのではないだろうか。
今日目にした、高校生やサラリーマン、中年男や若者は、皆同レベルの存在だった。だが、争うに際して「私はあなたと違う」というスタンスから入っていた。そうすることで、自分が相手を憎む行為を自己肯定していた。
多分、それは個人間だけの話ではない。組織間であれ、国家間であれ、争いが始まる本質とは、まさにそれなのだろう。「私とあなた、どちらが正しいか?」は、究極的に闘争の目的にならない。「自分と違うあなたをどう否定するか」が、究極的には闘争の本質なのだ。
「私とあなたは違う」。今日は、某少佐の言葉の意味を久しぶりに実感した一日だった。
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ここで「進撃のゴレンジャイ」を紹介。
アルミンのドヤ顔ww。
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