欠陥品には、欠陥品のまま排除されるか、修理されて使用されるかの生き方しかないわけじゃない

 欠陥品であることを隠しつつ、少しボロを出しながら周りの正常な機構と折り合いを付けながら生きていくというやり方もある。

 ていうか、そういう人ばっかりじゃないか?世の中って。私自身を含めて、欠陥や要修理箇所を抱えずに生きているパーペキな「正常品」な人間なんて、生まれてきてからウン十年、一度もお目にかかったことは無い。そして、たいがいの人間は、各々の欠陥や要修理個所を、9割方放置ないし完治できないまま生き続ける。

 何故か。その欠陥品である状態こそが、最も自然な自分自身であるからだ。仮にその欠陥を他の誰かから修理しろと言われても、多分その指摘を素直に受け入れる人間は少ないだろう。自分のパーソナリティに矯正のノミを入れることは、たとえそれが第三者的に正しくても、当の本人にとっては未知の自分への不安と苦痛をもたらす行為だからだ。そして、その不安と苦痛故に、大半の欠陥品の矯正は失敗に終わる。

 もっとも、その失敗によるトラウマを背負った人間の多くは、矯正過程において、「欠陥品として」「社会との折り合いを付けるやり方」を学んでいるため、トラウマが表面化することは少ない。ただ、自分を変えてもいいという勇気をほんの少し失うだけだ。そうして人は変わらず老いてゆく。大半の人間はその老いを享受することで、欠陥品のまま、社会構成員としては大過無く生涯を遂げる。

 今回、下記のリンク先の記事を読んで、「犯罪者の更生」とは何かを少し考えました。極論すると、私は犯罪者に更生してもらう必要を感じません。精神異常者であれ、思想的な危険人物であれ、社会と折り合いを付けて生きていけるのであれば、欠陥品のまま生きて頂いて特に問題ではない。むしろ、正常者たらんとして、自分に不自然なメスを入れて失敗し、社会との折り合いを付けることを放棄される方が千倍困る。

 彼らに更生なんて期待しない。反省もいらない。ただ、社会と折り合いをつけるための「枷」を自分自身に付ける術だけ、刑期中に学んでくれればそれで良い。昨年、ライブハウス「チェルシーホテル」のニコ道楽イベントで騒ぎを起こした男は、欠陥品である自分が正常品になれると考えて、あがき、そして大半の人間と同じく失敗した。彼の不幸は、その失敗の後、欠陥品としての自分が折り合いをつけられる別の社会を探すよりも先に、欠陥品である自分ないしそんな自分を受け入れない目先の社会の破壊という結論を選んでしまったことだ。

 彼は言う。「音楽への『復讐(ふくしゅう)心』。音楽で有名になりたかったが、才能もない。音楽業界にショックを与えたかったし、その人(女性歌手)もショックを受けるだろうと思った」「(放火できずに取り押さえられたことは)最悪と思った。火も付けられず、情けない。まぬけ。ふがいない。だっせー。未遂が一番嫌だったのに…」「(被害者に対して)まあ、この世界は不条理。運が悪ければ被害に遭うのは仕方ない。冷たい目で見ている」「(社会復帰は)全く考えていない。更生してまじめに生きて、何のメリットがあるんだ。ばからしい」「(更生を目指さないのは)自分は社会で生きる価値がないクズだから。生まれたのが間違いだったと思っている」と。

 これらを読んで、改めて思う。この放火未遂犯にとって、塀の中にいた年月はムダであったと。服役中の欠陥品に「君は正常品になれる」という夢を見せる暇があるなら、「欠陥品のまま社会で折り合いを付ける」ための生き方を彼らに教えるべきだったと。それが刑務所、少年院、鑑別所、そして「周囲との折り合いを付ける術を身に付けた欠陥品達で構成されている」社会の役割なのではないかと。

「更生に何のメリットが?」無反省 ライブハウス襲撃犯の「法相殺害計画」(3/3 産経新聞)

「絶望が、かつての「残虐少年」を再び凶行に走らせた。東京・渋谷のライブハウスで昨年8月、殺害目的でガソリンをまいたなどとして、殺人予備や現住建造物放火予備の罪に問われた男性被告(24)の公判。17歳で世間を震撼(しんかん)させる事件を起こした被告は、無差別殺人計画を立てるに至った「葛藤(かっとう)の6年間」を法廷で明らかにした。(時吉達也)」。

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